2008年10月13日

【ナイルの風 中東のまつりごと】(4)判事たちが反乱起こした

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■選挙の不正「見ぬふりできぬ」 
「開票で明らかな票の操作が行われ、選挙結果がねじ曲げられた」−。エジプトのムバラク長期政権に対して民主化を求める市民の声が高まった2005年11月の人民議会(下院に相当)選挙で、独立系の商業紙、マスリルヨーム(今日のエジプト)は、女性判事、ノハ・ズィーニー(40代)の「告発」を実名入りで報じた。

イスラム過激派によるサダト大統領暗殺(1981年)で布告された非常事態法の下で事実上の独裁・一党支配体制が続く中、国家公務員である判事がメディアに「体制による不正」を訴えたことは波紋を呼び、「司法の独立」を求める判事たちの前代未聞の“反乱”への序章となった。

この選挙を特徴づけたのは、71年の憲法改正で定められた「判事による選挙の監督」という条項がようやく全国の投開票所に本格的に拡大されたことだった。このため、約8000人の判事で一斉の投票を監督するには足りず、投票日は地域別に11月9、20日と12月1日の3回に割り振られた。

ズィーニーが不正を告発したのは、20日に投票された北部ブハイラ県ダマンフールの選挙区だった。判事団は、イスラム原理主義組織、ムスリム同胞団のガマール・ヒシュマト(51)=アレクサンドリア大学准教授の当選を確認したにもかかわらず、政府は数時間後、与党・国民民主党(NDP)のムスタファー・フィキー(現・人民議会外交委員長)の「当選」を発表したのだ。

「開票所にいた運動員から3万2000票対7000票で圧勝したとの連絡を受けていた」と、ヒシュマトは語る。地元の新聞はすでに「ヒシュマト当選」の紙面を用意していた。

□ ■ □

「判事全員が投開票の監督に当たるよう指示を受けたとき、正直、気乗りがしなかった。政府による票の操作は周知の事実だったからだ。政府は不正防止の措置を取ると約束したが、やはりほごにされた」。ズィーニーは、告発に踏み切った心境をこう振り返る。

政府側はズィーニーを「ムスリム同胞団員」と断じ、告発の信頼性をおとしめようとした。だが、当時の新聞報道によると、同じ選挙区の160の投票所で監督に当たった判事たちのうち、137カ所の責任者がズィーニーの主張を支持する声を上げた。それどころか、破毀院(一般最高裁)の副院長だったマフムード・メッキー(54)とヒシャーム・バスタウィーシー(56)の2人は「(ブハイラ県に限らず)大量の不正が認められた」として政府に調査を要求。アルジャジーラなどアラブ圏の衛星テレビに積極的に出演し、公然と政府批判を始めたのだ。

メッキーは「われわれが声を上げなければ、判事は体制の不正を追認するだけの存在として、国民の信頼を完全に失っていただろう」と語る。だが、当時の法相、アブ・ライルは06年4月、「判事の職務規定に違反し、国家機関を侮辱した」として、逆にメッキーら2人の懲戒処分を申し立てた。これに反発した「判事クラブ」(判事による独立職能協会)は抗議デモや座り込みを呼びかけ、多数の現役判事や「キファーヤ(もう、たくさんだ)運動」などの市民が参加、首都カイロの中心部で数回にわたり警官隊と衝突を繰り返す事態へと発展した。

メッキーら2人は結局、憲法裁判所での審理で懲戒は免れたものの、“造反判事”に対しては「昇進や重要な裁判からはずされるなどの報復」(ズィーニー)が行われているという。メッキーは破毀院での勤務を続け、バスタウィーシーは今年9月、職を辞し、クウェートで法律関係の仕事に就いた。

一方、政府と与党NDPは07年5月の憲法改正で、判事による全投開票所での監督を義務づけた条項について「監督は必ずしも必要ではない」と修正してしまった。

□ ■ □

05年の選挙の前後に急速な盛り上がりをみせたキファーヤ運動などの民主化運動は、ムバラク政権がブッシュ米政権の示した「中東民主化構想」に配慮し、強権の手綱を緩めたすきを突いて噴出した。

だが、世俗主義派を中心にキリスト教徒らも含めて幅広く勢力を結集したキファーヤ運動に対し、選挙で具体的な“果実”を手にしたのは、民主化勢力の一角を占めるものの、キファーヤ運動とは一線を画してきた宗教勢力のムスリム同胞団だった。ヒシュマトは“落選”したものの、同胞団系の議員は一気に88議席(改選前は15議席、定数454)となり、最大の野党勢力として無視できない存在となった。そして、同胞団の大躍進は、エジプトの民主化を考えるうえで「宗教対世俗」という新たな課題を浮上させる結果ともなった。=敬称略(村上大介)


【用語解説】エジプトの政治体制
1922年の独立後、立憲君主制をとり、イスラエル建国をめぐる第1次中東戦争敗北などで社会状況は悪化。52年、自由将校団のクーデターが発生し、翌年、共和制へと移行した。56年に大統領となったナセルはアラブ民族主義により民衆の人気を得て、社会主義的権威主義体制を確立。しかし、67年の第3次中東戦争で惨敗し、70年に急死した。

後継のサダト大統領は、社会主義的経済政策の転換を図り、米国に接近。国内左派を抑えるためにナセル政権下で弾圧されたイスラム勢力に一定の自由を与えたが、イスラエルとの平和条約締結に反発するイスラム過激派により81年に暗殺された。サダトは左派のアラブ社会主義連合を分割して複数政党制移行を試みたものの、78年に国民民主党(NDP)を創設、事実上の一党支配体制へと転換した。

ムバラク大統領はNDPを通じた独占的な支配システムを維持しつつ経済改革などを試みている。少なくとも16以上にのぼる政府公認の野党はいずれも弱小で、大統領の強大な権力は、与党の覇権的な体制によって維持されている。
 
posted by ナナシ=ロボ at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 中東・忘れられた場所で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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