2008年10月20日

【ナイルの風 中東のまつりごと】(5)拡大するイスラム宗教勢力

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■社会の疲弊が組織強めた
イスラム教の聖なる月、ラマダン(断食月)だった9月末のある夜、エジプトの首都カイロの西郊、ギザ県ワッラークを訪れると、あるビルの入り口付近に30人近い人たちが集まり、何かを待っていた。2階の一室にはさらに20人ほどいて、順番に名前を呼ばれると、小麦粉や食用油などが入ったポリ袋と生活補助金が入った封筒を受け取り、どことなく安堵の表情を浮かべて去っていった。

一人一人に袋を手渡していたのは、地元選出の国会議員、マフムード・アーミル(54)。イスラム原理主義組織、ムスリム同胞団に所属し、2005年11月の人民議会(下院に相当)選挙で初当選した。

イスラム教徒にとって、ラマダン中の日の出から日没までの断食が義務であるとともに、この月は貧者への施しを普段にも増して行うことが求められている。この夜、食料品の配布が行われていたのは、アーミルの地元事務所のひとつだった。

ボランティアで手伝っていた衣料品店経営のムハンマド・シャズリー(48)は「働き手の父親を失った母子家庭や政府の無策で貧困から抜け出せない人々への手助けは普段から行っているが、ラマダン月には慈善活動を強化している」と説明する。

資金は経済的にゆとりのあるイスラム教徒の喜捨でまかなわれ、地域に張り巡らされたムスリム同胞団のネットワークが洗い出した「生活困窮者」の台帳に基づき、同胞団の側から接触するケースが多いのだという。配布が終わった午後9時過ぎ、アーミルとシャズリーは奥の一室で分厚い台帳を開いて、次の配布対象者について確認作業を続けていた。


市民団体や選挙監督にあたった判事らによって多くの不正が告発された05年の総選挙だったが、ムバラク政権は明らかに“選挙結果”への干渉をこれまでより弱め、そのすき間を突いて政府が最も警戒する宗教勢力、ムスリム同胞団が88議席(改選前15議席)へと大幅に議席を伸ばした。正式には「非合法組織」である同胞団は、各選挙区に「独立候補」を立て、政権側もその勢いを止めることはできなかったのだ。

「食料や住宅費はうなぎ上りで生活はどんどん苦しくなっている。与党・国民民主党(NDP)の一党支配体制で民主主義が機能していない中、国民は“本物の野党”の出現を求めたというのが実情だろう」

政府系有力紙アハラムのコラムニスト、ファハミ・フダイビー(72)はこう指摘したうえで、ムバラク政権が1980〜90年代を通じて旧社会主義政党など20近い政府公認の少数野党の形骸化に成功した反動で、「国民の怒りの一票」が圧倒的な組織力を誇るムスリム同胞団に吸収されたとの見方を示した。

その集票力の秘密の一端は、アーミルが同胞団の草の根ネットワークを通じて作り上げている生活困窮者の台帳にも見ることができる。合法政党としての活動を許されない同胞団は、傘下の慈善団体を組織し、診療所や保育所、孤児院の運営までさまざまな慈善・社会福祉活動に手を染めている。日本であれば公職選挙法に違反する選挙区での物品や現金の配布も、「貧者救済」を重要な価値観とするイスラム教の社会では違法性がない。そうした風土の中で、宗教的な情熱と使命感を抱く運動員を数多く抱える同胞団は、社会が疲弊すればするほど強みを増す。


今年9月6日、カイロ南東部のムカッタム丘陵にあるドゥウェイカ地区で、切り立ったがけが割れ、石灰岩の巨岩が貧困層の住む多数の家屋を押しつぶした事故があった。100人以上の犠牲者が確認され、政府は現場一帯のスラムの一部の取り壊しに入っている。

同胞団は、事故の被災者支援活動について「同胞団メンバーは政府の治安部隊に阻止され、現場に近づくことができなかった」と主張していた。ところが、事故から約2週間後にインタビューした同胞団幹部の医師、アブドル・ムナイム・アブルフトゥーフ(57)(アラブ医療協会会長)に質問をぶつけてみると、「事故から1時間以内にわれわれのメンバーは現場にいた。ただ、政府を刺激したくないので、メディア向けには否定していたのだ」と言って、にやりと笑った。=敬称略(村上大介)

【用語解説】ムスリム同胞団の歴史
1928年、スエズ運河沿いの町イスマイリヤの中学校教師、ハサン・バンナーが設立したイスラム復興を目指す大衆組織。イスラム復興は19世紀以降、西洋帝国主義への反発と西欧化の浸透に危機感を抱き、イスラム教に基づく社会改革を目指す流れで、同胞団はその復興運動の代表的存在。

バンナーは、シャリーア(イスラム法)の実施による社会秩序の再生を目標とし、人々への呼びかけ(ダアワ)を柱に、イスラム教の理念を政治、教育、福祉、医療など社会生活すべての指針とする統合型の改革運動を展開した。40年代後半にはエジプト最大の政治結社となり、反イスラエル・反英ジハード(聖戦)に大衆を動員、地下武装組織も抱えた。52年の自由将校団のクーデターに至る社会情勢を醸成したが、バンナー自身は49年、暗殺された。

時の大統領ナセルは54年、同胞団を非合法化して弾圧、組織は壊滅的な打撃を受けた。70年にナセルが死去した後を受けた、サダトは政敵の左派に対抗させるため、同胞団の指導者を釈放し、合法化には慎重な姿勢を続けつつも、一定の復権と活動再開を認めた。

81年に大統領に就任したムバラクも同胞団を「非合法」のまま、その活動を許容する政策を取り、同胞団は「穏健なイスラム勢力」として既存の野党と連携して国会選挙に参加するようになった。90年代半ば以降、合法政党化を模索する動きも見せているが、ムバラク政権は折に触れて活動家を大量逮捕するなど、同胞団が一定以上に勢力を伸長させないよう弾圧と活動黙認を使い分けている。
 

posted by ナナシ=ロボ at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 中東・忘れられた場所で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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