2008年11月24日

【ナイルの風 中東のまつりごと】(9)過激派理論家「転向宣言」

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■「聖戦」が破局をもたらした
ムスリム同胞団に代表される大衆的なイスラム復興運動の発祥の地であるエジプトは、1981年のサダト大統領暗殺事件や日本人観光客も多数が犠牲になった97年のルクソール事件、さらには国際テロ組織アルカーイダによる2001年9月11日の米中枢同時テロにつながるイスラム過激派を生む母体ともなった。そのエジプトでいま、イスラム過激派の「転向」の動きが改めて注目されている。

最も新しい動きは、アルカーイダの基盤ともなったエジプトのジハード団の隠れた理論家だったとされる男が、アルカーイダのナンバー2でジハード団の元指導者だったアイマン・ザワヒリを批判し、アルカーイダが進める対米テロや武装闘争路線の否定を明確にする「転向宣言」を明らかにしたことだ。

この人物は、エジプトで服役中のサイイド・イマーム・アブドルアジーズ(58)=通称ドクトル・ファドル。サイイド・イマームは昨年11月、「エジプトと世界におけるジハード(聖戦)の正当化」と題する論文を発表し、腐敗した支配者に対するジハードの実行に対して厳格な条件を付すことで、「背教者に対するジハードは義務」としたイスラム過激派に通底する持論を事実上、放棄した。さらに、外国政府を敵としても無実の一般市民を巻き添えにすることは正当化できないなどとしてアルカーイダの無差別テロを非難し、イスラム教スンニ派の穏健主流派のシャリーア(イスラム法)解釈と大きく違わない主張を展開した。

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「転向宣言」が公になった直後の昨年12月、カイロ市内のトーラ刑務所でサイイド・イマームと長時間のインタビューを行った汎アラブ有力紙アルハヤートのカイロ支局長、ムハンマド・サラーハ(48)は、「ドクトル・ファドルはカリスマ性と知名度、イスラム法の知識について信頼性を兼ね備えており、ザワヒリらアルカーイダ指導部は、彼のような人物による批判が組織や支持者たちに与える衝撃を恐れているはずだ」と語る。

ザワヒリはサイイド・イマームの批判を非難する音声声明をインターネットに流したうえ、今年3月には「(批判は)『イスラムの敵』であるキリスト教とユダヤの十字軍、背教者である支配者らが、ジハード活性化の道に立ちふさがろうとする試みに加担するものである」などとした200ページ近い反論を発表した。サラーハは「激しい反応ぶりは逆に、ザワヒリの動揺と懸念の大きさを示している」とみる。

一方、サイイド・イマームは新たな再批判の文書を執筆し、エジプトの独立系紙などで先週から連載の形で掲載が始まっており、論争はさらに過熱する気配もみせている。

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サイイド・イマームはサラーハとのインタビューで、ザワヒリとの関係やジハード団、アルカーイダの内情を暴露し、「アルカーイダには、きちんとイスラム法解釈をできる法学者がいない」と主張。米中枢同時テロについては「(米国の軍事的報復で)アラブ人、アフガニスタン人、パキスタン人らにおびただしい犠牲者を出し、イスラム教徒に『破局』をもたらした」と否定し、「ザワヒリは(米軍のアフガン攻撃開始とともに)真っ先に逃亡した」と個人的な非難にも踏み込んでいる。

テロ対策を進めるエジプト当局にとっても都合の良い内容だからこそ、当局は服役囚による外部への論文発表を許可するわけであり、ザワヒリは、サイイド・イマームの批判が獄中から行われていることを問題視し、エジプト当局による強制、あるいは洗脳の結果であり「無効」との見方を強調する。

だが、ジハード団に所属していたこともある著名なイスラム系弁護士、ムンタシル・ザイヤート(51)は、「ドクトル・ファドルは80年代後半、アフガニスタンでジハード団のアミール(指導者)を務め、組織内でシャリーアを指導する立場にもあった。しかし、ザワヒリやウサマ・ビンラーディン(アルカーイダ指導者)とともにスーダンに潜伏していた93年ごろには武装闘争に疑問を抱き始めていた。獄中にあるとはいえ、彼の思想的見直しの意図は本物だ」と指摘する。

エジプトでは、80〜90年代に激しいテロや武装闘争を展開したもうひとつの過激派組織「イスラム集団」の獄中指導部が97年に一方的停戦を宣言し、99年に武装闘争放棄と国民への謝罪を行った例がある。思想的にはいっそう先鋭的なジハード団の有力理論家によるジハード論見直しにより、世界のイスラム過激派の思想形成の中核を担ったエジプトの2大組織による“転向宣言”が出そろった。

この流れが、イスラム世界各地でうごめくアルカーイダ的な聖戦組織の動向にどのような影響を及ぼすのか、まだ未知数ではある。=敬称略(村上大介)


【プロフィル】サイイド・イマームとアイマン・ザワヒリ
サイイド・イマームは1950年に上エジプト、バニ・スイフで生まれた。秀才として知られ、カイロ大学医学部に入学。そこでザワヒリと知り合った。ザワヒリは祖父がイスラム教スンニ派の最高学府、アズハル大学の総長、母方の祖父もアラブ連盟の創設者に名を連ねるという名家に生まれた。

ザワヒリは10代半ばでムスリム同胞団に加わり、70年代初めに、まだ無名のジハード団に参加。サイイド・イマームは70年代後半、ザワヒリに勧誘されたとされるが、81年のサダト大統領暗殺直前にサウジアラビアに移り、ジハード団摘発を逃れ、83年、アフガニスタンでソ連軍と戦うためにパキスタンのペシャワル入りした。ザワヒリは3年間服役した後、80年代半ばにペシャワルでサイイド・イマームと合流し、2人で組織再建にあたった。

サイイド・イマームは87年の著作「ジハードに備えるための本質」で、イスラム法に基づかない統治を行う支配者は背教者であり、打倒のための武装闘争は義務−とするタクフィール(ある人物や集団を「不信心者」と宣告すること)論を展開。80年代末にアミール(指導者)となった。

ただ、サイイド・イマームは、スーダンの資金援助を受けてエジプト国内での勝算のないテロ実行を指示するザワヒリとの確執を強め、93年ごろに組織を離れ、イエメンで医師として暮らした。

99年にエジプトで欠席裁判のまま禁固25年の判決を受け、2002年にイエメン当局に逮捕され、04年にエジプトに引き渡された。一方、ザワヒリは98年、ジハード団の一部を率いて、ビンラーディンのアルカーイダに正式に合流した。
 
posted by ナナシ=ロボ at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 中東・忘れられた場所で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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