2008年12月01日

【ナイルの風 中東のまつりごと】(10)「イスラム集団」の武装闘争放棄

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■「暗殺」は何も生まなかった
「われわれはサダトを殺した。だが、現実は何も変わらなかった。獄中で何をどう間違えたのか真剣に向き合わざるを得なかった」
その男は、1980年代から90年代にかけてエジプト国内で武装闘争を展開した同国最大のイスラム過激派組織、イスラム集団による武装闘争放棄への経緯を言葉少なに振り返った。

男は81年、エジプト大統領、サダト暗殺事件で逮捕されたイスラム集団のリーダーの1人だった。「集団」は97年7月、テロ事件の公判で被告の1人が突然、声明を読み上げる形で一方的な武装闘争停止を宣言し、疑念も入り交じった驚きを内外で呼んだ。

「集団」の武装部門は92年ごろから国内で外国人観光客やコプト教徒(キリスト教の一派)に対するテロを激化させた。インババと呼ばれる首都カイロの貧民街は一時期、治安部隊も入り込めない“イスラム過激派の解放区”になった。

突然の宣言に反発したとみられる武装部門の小グループが97年11月、ルクソールのハトシェプスト女王葬祭殿で日本人10人を含む外国人観光客約60人を死亡させる凄惨なテロを引き起こす。だが、獄中の政治指導部は路線の見直しを続け、当初は反発していた海外亡命指導部の大勢も支持し、「集団」は99年、最終的に無条件武装闘争放棄を宣言するに至った。

2005年に恩赦を受けた指導部の1人がエジプトの地中海岸に面した町で暮らしていると人づてに聞き、訪ねてみた。男は「内務省の許可がなければ話せない」とかたくなだったが、「武装闘争に後戻りすることはないのか」との質問に、ようやく口を開いた。

「コーラン(イスラム教の聖典)とスンナ(預言者ムハンマドの言行)に立ち戻り、多くのイスラム法学者の著作を真摯に研究した。(テロで)多くの人を苦しめたことを謝罪する必要があった。一言で言えば、われわれは、信仰と政治運動を混同していたのだ」

そして男は「宣言の後もわれわれは16冊の『見直し文書』を出した。暴力と完全に決別したことは、これを読んでもらえば分かる」と言って、何冊もの冊子を出してきた。01年の9・11(米中枢同時テロ)で国際テロ組織アルカーイダが採用したハイジャックの手法や自爆テロ、民間人殺害など、さまざまなテロの手法をイスラム法の観点から批判し、ジハード(聖戦)の「正しい理解」などを平易に説いた内容だった。

■□■

81年10月6日にサダトを暗殺したのは、いま国際テロ組織アルカーイダのナンバー2となったアイマン・ザワヒリが加わっていた過激派組織、ジハード団であり、イスラム集団ではなかった。しかし、暗殺の2日後、カイロの南約300キロにある中部アシュートでイスラム集団が武装蜂起し、サダト暗殺とアシュート蜂起で一気に「イスラム革命」の達成を狙った両組織の連携が明らかになった。

当時のイスラム過激派に共通していたのは、サダトはシャリーア(イスラム法)に基づく政治を行っておらず、理想的なイスラム社会を実現するには、腐敗した支配者を打倒するジハードがイスラム教徒の義務だとするジハード論だった。

ムバラク政権にとって治安対策上、より大きな脅威だったのは、イデオロギー的には急進的ながら組織は小さかったジハード団ではなく、独立した武装部門を持ち、構成員の数や組織力で圧倒的に上回っていたイスラム集団だった。それが武装闘争放棄を宣言したことで、政権にとり国内のテロ対策はひとつの山を越えた。「武装闘争放棄」を誓約し釈放された「集団」のメンバーは昨年末で1万2000人を超えたという。

■□■

アラブ社会主義を唱えたナセルの後を継いで70年に大統領に就任したサダトは、親ソ連だった外交路線を転換して米国に接近。反発するナセル主義者や左派を抑えるため、ムスリム同胞団系の閣僚を任命するなど、ナセル時代に弾圧されたイスラム勢力に大幅な自由を与えた。だが、70年代後半には経済開放政策の失敗で国民の不満が高まっているところに、イスラエルとの平和条約締結(79年)に反発したイスラム勢力に激しい弾圧を加えたことが、皮肉にもイスラム過激派による暗殺の引き金となった。

イスラム集団の獄中指導部の理論指導者だったナガハ・イブラヒム(52)が武装闘争停止宣言から約10年を経た今、改めて「転向」を総括した文書が手元にある。その最初のページにこうあった。

「サダト時代はダアワ(人々をイスラムへと導く呼びかけ)にとって黄金時代だった。しかし、若さゆえにイスラムの道を説くだけでは満足できなかった。そう、われわれはイスラム国家を欲した。だが、人々へのダアワは十分ではなかった。その結果、われわれは両方を失った。そればかりか、何千人もの若者を監獄に送り、ダアワの道は閉ざされ、イスラム運動の進展を阻害した」=敬称略(村上大介)


【用語解説】イスラム集団とジハード団
1960年代末の結成とされるジハード団は首都カイロを拠点とした都市型組織で、知識人に支持者が多かった。腐敗した支配者を打倒し、イスラム国家を樹立するという考え方を共有する複数のグループ(細胞)が連携し、ピラミッド型の階層構造ではなかった。

これに対して、イスラム集団は、70年代前半にナイル川上流の上エジプトの各大学で結成されたイスラム原理主義学生組織が連合して成立した。当時、アシュート大学シャリーア学部の講師だったイスラム法学者、オマル・アブドルラハマン(93年のニューヨーク・世界貿易センタービル爆破事件に関与したとして米国で服役中)を「集団」の精神的指導者に担いだ。

サダト暗殺では、ジハード団のイデオローグだったムハンマド・ファラグ(事件関与で死刑)が著作「隠された責務」で、「邪悪な支配者」をまず打倒すべきだとする「イスラム社会内部でのジハード(聖戦)優先論」を唱え、ジハード団とイスラム集団の連携のカギを握った。

90年代以降は、「集団」が観光収入への打撃を狙って観光客など一般人をも標的としたテロを続けたのに対し、ジハード団は2回のムバラク大統領暗殺未遂と首相暗殺未遂など政府要人を狙ったテロを4回実行したにとどまっている。
 

posted by ナナシ=ロボ at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 中東・忘れられた場所で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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