2007年04月19日

「従軍慰安婦」に関する東京裁判提出資料(要約)

「従軍慰安婦」について、東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書7点の内3点しんぶん赤旗編集部が要約した物。
検察陣を構成した各国の政府機関が作成し、裁判の証拠書類として採用された。林博史関東学院大学教授が4月17日に発表。

現在ネット上で読める物としては最も詳しく、また赤旗の記事は最短3週間で消える事も有るので取り急ぎ紹介&保存。中に入れておくので、お好きな方だけどうぞ。
早いところ、全文、出さんかー。


「従軍慰安婦」に関する俺の認識
・「従軍慰安婦」の多数は、主に経済的困窮の末に、その「職業を選択」した。
・軍をはじめ日本の政府組織全体が、組織的に「慰安婦狩り」等を
 指揮した事は無い。
・軍をはじめ日本の政府組織の内、一部が「慰安婦狩り」等を現場の
 独断で行った可能性は極めて高い。
・日本政府には「慰安所」を経営していた業者への監督責任が有った。

追記:2007-04-26 残りの資料4点追加 
 
「ポンテヤナック虐殺事件に関する1946年3月13日付林秀一署名付訊問調書」
(インドネシア・ボルネオ<カリマンタン ポンティアナック)
(PD<検察側書類番号>5326/EX<法廷証拠番号>1701A)

本日、1946年3月13日容疑者林秀一は在ポンチヤナック臨時軍法会議予審委員たる予、即ちメーステル・イエ・ベ・カンの面前に出頭した。

[証人○○の訊問調書が容疑者に提示され、これについて訊問がなされた]

答 この婦人が○○及○○と共に上杉より訊問を受けたことは本当であります。その場合私は馬来(マレー)語通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云ふので告訴されたのです。日本人と親密にすることは上杉の命によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて三人の少女は一時間裸で立たなければなりませんでした。

問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。

答 私は知りません。

問 君は部下ではない。かくの如き命令に従ふ必要はない。

答 私はこの婦人たちが脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私は此の婦人たちは実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を抑留したのは彼等を淫売屋に入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人たちは淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だか私は知りません。

 (被害者女性の名前は○○に置き換えました)

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オランダ印軍情報部J・N・ヘイヂブロエク陸軍大尉の報告「日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告」
(1946年7月5日付、インドネシア・ボルネオ島<カリマンタン>ポンティアナック)
(PD5330/EX1702)

1943年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイは日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。

彼は同時に公式の慰安所を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所は二種に分類することになって居ました。即ち3ヶ所は海軍職員専用、5、6ヶ所は一般人用で其の中の1ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。

海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。

日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。

海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主として各兵曹長によって行はれました。

一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の尽力によって集められました。

上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。

私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

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オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書
(1946年1月13日付、インドネシア・モア島)
(PD5591/EX1794)

問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。

答 私は兵隊達の為に娼家を一軒設け私自身も之を利用しました。

問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。

答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

問 幾人女がそこに居りましたか。

答 6人です。

問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。

答 5人です。

問 どうしてそれ等の婦女たちは娼家に入る様強ひられたのですか。

答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。

答 左様です。

問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。

答 8ヶ月間です。

問 何人位この娼家を利用しましたか。

答 25人です。

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ルイス・アントニオ・ヌメス・ロドリゲスの宣誓陳述書
(1946年6月26日付、ポルトガル領ティモール<東ティモール>)
(PD5806/EX1792A)

1942年2月21日、私は、日本軍がディリの中国人やその他の家々に押し入り掠奪をおこなうのを見ました。日本軍があちこちで族長らに対して、日本軍慰安所に現地の少女たちを提供するように強制したことを私は知っています。その際に、もし少女らを提供しなければ、日本軍は族長らの家に押しかけて、慰安所に入れるために近親の女性たちを連れ去るぞ、と言って脅迫しました。

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イエ・ベールマンの尋問調書
(1946年5月16日付、インドネシア・ジャワ島マゲラン)
(PD5770/EX1725)

私は一般被抑留者としてムテラン収容所に抑留されました。1944年1月28日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇(ジャワ)人の一警視を見ました。彼は私を他の6人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。

私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私達を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私達は3人の日本人に引渡されて3台の私有自動車でマゲランへ輸送され午後4時に到着しました。

我々はテウグランと称せられ14の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。1944年1月25日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。

1944年2月3日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。

其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後9時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠もりましたが他は其通りにしました。

私は是を2月5日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。

其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。

其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。

此の状態が3週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。

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ニェン・ティトンの口述書抜粋
(ベトナム・ランソン)
(PD2772E―5 EX2120)

四日間自由であった後、私は街で日本人に逮捕され印度支那保安隊の病院の後方にある憲兵隊に引致されました。

私は八日間、日本憲兵隊に監禁された後放免されました。其後私は数回逮捕され乱暴に殴られました。日本人等は私の仏人との交際を咎めたのでありました。

ランソンに於ける捜査の間、日本人等はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数名に彼等が光安に設けた慰安所へ一緒に行くやう強制しました。私は巧い計略の結果、彼等から免れることが出来ました。

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軍事委員会行政院戦犯証拠調査小隊「桂林市民控訴 其の一」
(1946年5月27日付、中国桂林)
(PD2220/EX353)

敵軍の我が桂林を侵略せしは一年間にして其の間姦淫、捕虜、掠奪等為ささる処無く長縄大尉なる日本福岡県人は敵復興支部長の職を担当し、人と為り陰険悪毒にして桂林市に有る偽新聞社並びに文化機関をして自己の支配下に置き其等を我が民衆の懐柔並びに奴隷化の中心機関とし且又偽組織人員を利用し工場の設立を宣伝し、四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した。
posted by ナナシ=ロボ at 18:57| Comment(3) | TrackBack(1) | 軍事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして^^

私の健康関連サイトで
こちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。

紹介記事は
http://mango02.blog56.fc2.com/blog-entry-134.html
です。
Posted by 健康家族 at 2007年04月19日 21:02
>「従軍慰安婦」に関する俺の認識
これに関してはほぼ同じ認識。

 正直な所、一部の現地部隊が強制的に慰安婦を徴集した事実はあるのだろう。
ただ、それがどれくらいの数にのぼるのかはもはや知る術は無いように思う。

 また、現代における慰安婦問題が「数」ではなく「行為」そのものへの抗議であるならば真摯に謝罪すべきとも考えるが、今判っている「慰安婦」達の全てが、強制連行されたとも思えず、戦後保証目当ての方々がいる可能性もかなりあると考える。

難儀な問題だよな・・・
Posted by at 2007年04月19日 23:32
慰安婦なんかでっち上げですよ。
東京裁判での証拠?ハァ?勝者の報復に公正さが有ると思ってんですか?在日?pupupupupwwwww


┏┫ ̄皿 ̄┣┓<…みてーなコメント、このblogには全然付きませんな。今度からは「俺の認識」とかの厄除けまじない札、貼らないで書くかー。

つー事で

>まじない札効かないクラスの魔物
> ほぼ同じ認識
自称極右の俺と「糞サヨ」のお前で一致してる所が、またなんとも…(苦笑)

> もはや知る術は無いように思う。
日米中対ソ包囲網の時代に、合同調査でもやってりゃあなぁ…
Posted by ナナシ=ロボ at 2007年04月20日 09:55
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安倍晋三首相 従軍慰安婦問題で日本側に責任と謝罪
Excerpt: 安倍晋三首相は26日からの初訪米を控え、米ニューズ
Weblog: ネット社会、その光と闇を追うー
Tracked: 2007-04-21 20:04
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