大木毅 現代史家
<1>陸海軍 個性・心性は様々
「帝国軍人」、すなわち旧日本陸海軍の軍人については、非合理的で粗暴な陸軍軍人、国際的・自由主義的な海軍軍人といったステレオタイプがあるように思う。これらは、主として、戦前戦中の固定観念、戦後の小説や戦記、映画、漫画などによって形成されてきたといってよい。
昭和8年(1933年)の練習艦隊の様子(広島県呉市の大和ミュージアム提供)
だが、はたして、こうした「紋切り型」はどこまで妥当なのだろうか。
歴史雑誌の編集部で働いていた一九八〇年代に多数の旧陸海軍軍人に接する機会を得た筆者としては、全否定こそしないものの、紋切り型による帝国軍人の理解には疑問を覚える。以下、軍の幹部である将校に絞って検討してみよう。
海軍士官は、早くから世界を見て、諸外国の事情に接する。事実、幹部養成学校である海軍兵学校生徒は、卒業直後に練習艦隊を編成し、海外を巡航する遠洋航海を実施するのが常であった。ゆえに広い視野を持ち、開明的になるとは、日本海軍のみならず、世界諸国の海軍にいわれるところだ。しかし、それが根拠のない幻想にすぎないことは、カイザー時代のドイツ海軍がやはり世界を知っているはずなのに、陸軍以上に国粋主義に走り、階級意識に凝り固まっていたとの事実を指摘するだけでよかろう。
日本海軍の士官も例外ではない。海軍軍縮を推し進めた加藤友三郎や終戦を実現させた鈴木貫太郎のような識見の高い人物を輩出する一方、右翼国家主義者の末次信正を要路に付けたのもまた海軍なのである。筆者が接した海軍士官もさまざまで、一九二〇年代の平和な兵学校で手間暇予算をふんだんに使って育てられた人と、戦争末期の大量生産クラスを出た人では、まったくちがう。
陸軍士官についても、情報や補給を軽視し、無謀な作戦を強行する参謀という紋切り型がつきまとう。だが、それは超エリート教育を受けた作戦参謀をイメージしてのことだ。その一典型である辻政信には、戦後、このような挿話が伝えられている。防衛大学校では、紳士教育の一環としてダンスパーティーが開かれているが、辻は、軍の幹部になる者がそんな軟弱な真似をするとはけしからんと怒鳴り込んだというのである。辻、あるいは陸軍作戦畑将校の心性を物語るエピソードであろう。
ところが、その一方で、情報や兵站などの畑を歩んできた陸軍士官には、驚くほど知性的な人物がいた。筆者が直接接した例では、終戦時の阿南惟幾陸軍大臣の秘書官林三郎である。彼らは、職務の要求するところから、きわめて大局的・合理的な判断能力を得るようになっていたのであった。
とどのつまり、紋切り型は、ことの一側面を鮮明に映すけれども、全体像を浮かびあがらせることはできない。自明の理ではあるが、帝国軍人をみるにあたっても、生い立ち、社会的背景、経歴など、多様な面からみていかなければ、彼らの陰翳に富んだ歴史的個性を把握することは不可能なのである。
<2>「教訓戦史」の落とし穴…都合良い戦争研究に終始
両大戦間期、日本陸海軍の軍事力は世界有数とみなされてきた。海軍はもとより世界第三位の艦隊を有していたし、陸軍も装備の近代化において見劣りするとはいえ、東アジアの軍事バランスに鑑みれば、とうてい軽侮できるような存在ではなかった。
日本軍は、欧州の戦史を積極的に翻訳した。右はドイツ海軍軍令部編の「北海海戦史」(防衛研究所戦史研究センター所蔵)
その陸海軍の指揮を執る将校たちは、当時にあっては最新の近代的戦争である第一次世界大戦の研究に、おさおさ怠りなかった。巨額の予算と多数の人員を投入し、英独仏露をはじめとする列強の公刊戦史を翻訳刊行するとともに、軍の高級将校育成・研究機関である陸軍大学校や海軍大学校、軍の各学校などで第一次世界大戦の研究を進めさせたのだ。もちろん、学術的関心ゆえのことではない。彼らにしてみれば、最新の戦争である第一次世界大戦は、「つぎの戦争」のために、教訓を汲くみ尽くさなくてはならぬ歴史的事象だった。いわば、第一次世界大戦研究は、帝国軍人にとって「実学」だったのである。
しかし、この「実学」の営為は、無残な結果に終わった。海軍は、航空戦の勝敗が海上支配を左右するようになった海戦の変化についていけなかった。また、海国日本にとっては、死活的な重要性を持つ海上護衛戦でも後手にまわった。陸軍も、航空優勢や火力の優越によって敵を圧倒することにしばしば失敗し、いたずらに兵の屍を異郷にさらした。かかる事態は、何故に生じたのだろう。
筆者のみるところ、その重大な要因の一つに「教訓戦史」がある。帝国軍人たちは、第一次世界大戦の研究を蓄積したけれども、その真実を直視しようとはしなかったのである。たとえば、第一次世界大戦の西部戦線では、敵陣地の攻撃に先立ち、ときに一週間以上にもわたる砲撃(準備砲撃)が実行された。恐るべき物量戦であり、これに対応する策を真剣に考慮しなければならなかったはずだ。にもかかわらず、日本陸軍はそれをしなかった。あるいは、そうした物量戦を実行することは、国家総力戦の遂行にほかならず、日本の国力では不可能であると暗黙裏の一致に達していたのかもしれない。いずれにしても、陸海軍ともに「つぎの戦争」に必要とされることを追求するのではなく、自らにできる既定方針を補強する実例を戦史から探し、そこから、おのれの戦略・作戦・戦術を肯定する論理を導くというアプローチ、「教訓戦史」に終始したのである。この場合の「教訓」とは、日本軍が定めた戦闘原則に都合のいい手前勝手な戦訓にほかならなかった。
かくて、日本陸海軍は、現実には適当でない「教訓」を抽出した上で、あの戦争にのぞんだのである。
<3>自衛隊への影響…「精神偏重」「教訓戦史」に懸念
帝国海軍の後裔を自任し、また公言する海上自衛隊を除けば、自衛隊は旧軍とは断絶した存在であることを建前としている。陸上自衛隊は、日本再軍備の過程において、極力帝国陸軍的な性格を排した組織として形成されたし、航空自衛隊に至っては、大日本帝国がとうとう持つことのなかった新しい軍種(陸海空軍など、軍隊の種類区分)、独立空軍である。
1951年に行われた発足1周年の記念行事で行進する警察予備隊(現・陸上自衛隊)=東京・越中島で
しかしながら、全き無から有をつくりだすことはできない。陸海空三自衛隊ともに、冷戦下の要求ゆえに、何十年もかけて一から将校や下士官といった基幹要員を育成することは不可能で、すでに教育訓練済みの元帝国軍人を採用せざるを得なかった。陸上自衛隊(当時、警察予備隊)は最初、旧陸軍士官学校卒の職業将校を受け入れない方針であったが、人的需要を満たすために、陸軍の少壮幹部だった人々の入隊を認めた。一九五四年に創設された航空自衛隊の基幹要員は、旧陸軍航空隊関係者が主体となっていた(旧海軍航空隊搭乗員の多くは、太平洋戦争の航空消耗戦に斃れていたのである)。より技術性・専門性の高い海上自衛隊が、旧海軍の人材を継承したことはいうまでもない。こうした人的連続性が、自衛官、とりわけ幹部自衛官の心性に帝国軍人の影を落とさないはずはなかったであろう。
実際、旧陸海軍の顕著な特徴であった精神主義、というよりも精神偏重主義は、今日の自衛隊においても、ときに頭をもたげてくるように思われる。洩れ聞くところによると、航空自衛隊が策定したドクトリン(作戦・戦闘における部隊の基本的運用を定めた教義)には、積極進取、献身、品位に満ちた「よき服従者」であれとする「航空自衛隊魂」を説いた一章があるという。合理的かつ醒めた認識を持つべき教範の紙幅が精神論に割かれているあたり、作戦要務令の一部に戦陣訓が組み込まれているがごとき据わりの悪さを感じるのは筆者だけではあるまい。
けれども、より深刻だと思われるのは、好都合な戦例を集めて、自らのドクトリンの正当性を根拠づける「教訓戦史」への回帰ではないか。現在、自衛隊は仮想敵に質量ともに圧倒されつつある。にもかかわらず、自衛隊の戦史研究が集中しているのは、戦略・作戦レベルの方策で不利な状況をくつがえした実例ではなく、たとえば硫黄島における栗林忠道司令官の統率をはじめとする島嶼防衛戦であるという。彼我の戦力、島嶼防衛・奪回というドクトリンに合わせた戦例研究であるといわざるを得ない。
防衛を、物よりも知性に頼らざるを得ないわが国にとっては、心もとないかぎりだ。はたして、これで窮境に活を見いだすことができるのか、旧陸海軍の轍を踏んではいないだろうかと懸念される今日このごろである。
<最終回>実態に迫る難しさ…史料や証言 改竄や歪曲も
本連載では、一般に流布されている「帝国軍人」の像が必ずしも実態にそぐわないものであることを中心に論じてきた。それらの多くは、戦後の社会的な風潮のなかでそうであったにちがいないと決めつけられてきた、あるいは、旧軍人自身がかくあるべしと伝えたかったイメージにほかならなかったのだ。
戦史研究センターの陸海軍史料を保管した史料庫(防衛研究所提供)
では、こうした先入主を排して、帝国軍人の実態に迫るには、どのような注意、もしくは方法が必要なのだろうか。実のところ、これはなかなか一筋縄ではいかない難問である。いかなる時代の研究であれ、極力一次史料に依拠して、事実関係を再構築する必要があることは論を俟たないし、その際、慎重な史料批判を必要とすることはいうまでもない。一次史料に書いてあることイコール事実ではないのだ。
たとえば、ナチス・ドイツの公安機関は、膨大な量の民情報告を残している。この文書を読むと、ドイツ全土に反体制的な動きが蔓延しているかのようにさえ思われるが、むろん実情はちがう。ナチ公安機関といえども官僚組織であるから、さしたる大事なしと報告しているだけでは、ならば必要なかろうと予算や人員を削られてしまう。ゆえに、ささいな事件であろうと、逐一報告しているということが、そうした文書の背景にあると思われる。
日本陸海軍の公文書、すなわち一次史料についても、同様のことが、しかも、より多くのケースに当てはまる。呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長の戸高一成氏との対談『帝国軍人』(角川新書)でも多々指摘したことであるが、日本陸海軍は巨大な官僚組織である。その文書も、組織防衛などの理由から、事実をゆがめて記載される、はなはだしきは改竄されている場合も少なくない。そこまでいかなくても、陸海軍という役所の用語法や事情を知らなければ、真意を理解できないような文書もざらにある。
では、当事者となった帝国軍人たちの証言、回想はどうか。これもまた百パーセント信用できるものではない。戦後しばらくのあいだは、戦犯とされることの恐れや旧軍における人間関係への忖度そんたくなどから、事実が語られぬことがあった。さらに、時を経て、昭和から平成になっての回想となると、自らを飾ろうとする意図からの歪曲や記憶ちがいが忍び込んでくる。
このように述べると、令和の世に、かくも貧弱な材料だけで帝国軍人の実態に迫るのは不可能ではないかと悲観される向きもあるかもしれない。たしかに、これさえやれば、真実にたどりつけるというような万能の処方箋は存在しないのであるが――残された文書を読み解き、当事者の回想や証言と照らし合わせ、帝国軍人の官僚としての行動様式からの考察を加えることはできる。あらゆる歴史事象同様、帝国軍人の実態に近づくには、地中に埋もれた化石の土砂を払い、古生物の骨格や生態をあきらかにしていく作業に似た、多面的なアプローチを愚直に積み重ねていくほかないのである。