彦ジイのお通夜に行ってきた。
享年85才。のーみその血管パーンしてから8年。認知症やらが出て、ほぼ寝たきりになって4年。皆、いずれ来る「その日」を思い、覚悟してきたのだろう。涙も無い、逝く方にも見送る方にも、どこか「お疲れ様」という言葉が似つかわしい良い通夜だった。
彦ジイは、ロボ家で「とこやさん」と呼ばれる一家の主であった。文字通り理髪店だったのである。おかげで、俺は17才になって友達に「一度、お前も美容院、行こうぜ」と強引に誘われるまで、とこやさん以外で髪を切られた事が無かった。いや、ファッション等に全く興味を示「せ」ない気質(当時は『ヲタ』などという便利な単語は無かった)なのが最大の理由なのだが。
とこやさんとロボ家の付き合いは、けっこう古い。どのくらい古いかと言うと、ロボ・ジーチャンことチョージさんが満州でスッテンテンになって帰ってきたら、今度は日本全体がスッテンテンになった。その頃にとこやさんの近所に住み始めた時からである。
とこやさんは、ふぐすまの鉄道操車場の近くにあった。ふぐすまは、全くと言って良いほど空襲を受けなかった。東北本線と奥羽本線の整備を一度に行える場所として、国鉄はふぐすまの操車場を強化した。とーほぐ全体から国鉄マンが集められた。鉄道マン達は近くの床屋に行った。そこに妙齢の看板娘が居れば尚更であったろう。その中に大きな体の鉄道機関士が居た。そう、若き日の彦じぃである。当時、最新鋭であったディーゼル機関車の教育を受けていたというのだから、優秀であったのだろう。彼は看板娘の
股間ハートを射止めた、ズキュゥゥゥゥゥゥゥゥゥン。
年齢が近かったからかもしれない。とこやさんのオバちゃんとチョージさんの奥さん、つまり俺のばーちゃんであるオドイさんとは、たいそう仲良くなったらしい。とこやさんのオバちゃんが客商売で外向的で明るく、おドイさんが昔のとーほぐの農家で躾られた、自分を主張しない、聞き上手で有った事も大きいかもしれない。
おドイさんには娘が居た。「カドのマッチャン」と呼ばれていた。「カド」=交差点に立っては、通り掛かるガキどもにパシリさせていたからだ。そんな少女時代を送ると60過ぎてもワガママ全開の女王様気質が抜けない。幼少期教育恐るべし。
マッチャンは、実は貰いっ子だった。
いつの時代にも子供に余計な事を言う大人が居る。あ、俺か。
貰いっ子だと教えられても、マッチャンは、原則、今が良ければむつかしい事は考えない女王様気質なので、そんなには悩まなかったらしい。俺もそうなので、この辺の機微は大変によく判る。しかも、女王様気質なので思った事は考え無しに口にする。大変によく判る。マッチャンは教えられた事を、そのまま尋ねた。自分は貰われてきたのかと。
暴露された大人達はたいへんに動揺した。そして、想像した。自分達がこれほど動揺しているのなら、マッチャンは、どれだけ小さな胸を傷めているのだろうかと。そんな訳ねーのだが。
詳しい経緯はわからない。ただ、とこやさんのオバちゃんは、マッチャンを抱きしめて泣いた。泣きながら「あんたは、おドイさんとチョージさんの子供だから」と繰り返し繰り返し言ってくれたのだそうだ。彦じぃは、夕焼けの中、その二人の脇に大きな体で立っていた。マッチャンは、その言葉が嬉しかったのだという。多少、鬱陶しくもあったらしいのだが。この人非人。
少し大人になってから、マッチャンは東京の短大に進み、ふぐすまに戻り、教師になった。女王様は人に命令するのが大好きだから正に天職であったろう。そして、マッチャンは一人の男性に出会う。群馬の山出しのイナガモノの大学講師に。
このイナガモノと彦じぃは、高度経済成長していく日本の中で「きょーさんとー」と「どーろー」という、時に軌を一にし、後には決定的に対立する組織に属しながら、年齢差から言えば逆転した師弟関係とも言うべき奇妙な信頼関係を築いていく事になる。
だが、その物語は、いずれ別の機会に。
posted by ナナシ=ロボ at 02:40|
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